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浄土真宗本願寺派 善教寺
浄土真宗本願寺派 善教寺
仏教用語
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漢字で書いてあるものが仏教語です。
内容には特に意味はありませんのでご了承ください。
ある講師が玄関からはいり、食堂で挨拶をした。そして講堂にはいり、学生たちに「自然の開発や観察」「人間の葛藤や我慢」について演説した。退屈そうにしているものもいたが、みな諦め、覚悟をきめて礼儀よく、律儀に講師のはなしを機嫌よさそうにきいた。
のちに、講師は無事出世して教授になるゆめを成就した。
世間ではその講師のことを、上品で知識もあり、
愛敬もよく、学生から愛されており、差別もせず悪口や皮肉もいわない。迷惑もかけず平常心で、それでいて冗談もいうし融通もきく。まいにち、いえで看病もし、根性も自覚もある不思議で有り難い人間だと世間はいう。初心を相続するよう用心し、道楽もやめ、一念発起して知事にでも志願すれば、その果報として大丈夫だろうと安心されている。これでもし脱落すれば一大事だ。所詮、有頂天になっていただけの意地っぱりだと馬鹿にされることを観念しなくてはならない。そのときには内証で懺悔し、呵責にたえて堪忍してもらおう。
もともとは仏教の専門用語であったものが、日本人の日常に溶け込み、日常語として使われるようになりました。おそらく、その言葉が日常に入ってきた当時は仏教の言葉だという認識はあったと思われますが、時と共に発音や意味が変わり、仏教を基盤とした生活から離れてきつつある現在では、「仏教語」であると認識する必要もないのかもしれません。しかし、過去の日本人が日頃の生活に仏教用語を用い、例えば「差別」という言葉などは「しゃべつ」と読み、元来はそれそれが輝いているというような良い意味で使われていたのが、現在では違っているというような事も多く、おもしろいものです。まだまだたくさんの仏教用語が巷に溢れているのですが、個人的には「平等」という仏教用語が素晴らしいなぁと感じています。そのような思想がなかった時につくられた言葉だそうです。
ちなみに上記で使った過去や現在も仏教用語のようです。もちろん未来も。仏教は三世を通した教えですから。
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